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業務分野

増田・舟井法律事務所は、国際企業が米国に進出し、事業を運営・拡大していく過程で直面する障害を取り除き、よりスムーズにビジネス活動を行えるように支援します。1世紀近くもの間、クロスボーダー案件を取り扱ってきた当事務所は、その経験と米国のビジネス・法律制度に関する知識を駆使しながら、国内外のクライアントが直面する課題に対する解決策をアドバイスし、ビジネスチャンスの探求をサポートします。米国に初めて進出する中小企業を代理する場合でも、またはすでに米国に施設を構えたグローバル企業を代理する場合でも、増田・舟井は、事業ビジネスサイクルの各ステージを熟知しています。一般的な案件から非常に複雑な取引や紛争まで、総合的なリーガル・サービスを提供します。

クライアント

増田・舟井のクライアントは、大部分が外資系企業です。当事務所が取り扱う業務分野は広範囲にわたり、自動車産業、先進製造業、輸送・物流業、専門サービス業、消費者製品製造業、食品業、食品加工業、不動産業、学術機関および金融機関など、さまざまな業界が含まれます。クライアントの事業が新規のものか、または既存のものかに関わらず、国内外の企業を代理します。米国で事業を行うクライアントにとってビジネス・プロセスの簡略化は非常に重要ですが、増田・舟井はそのようなクライアントのニーズにも適切に対応します。特に、当事務所では、ミッドマーケットの日系買収案件をどのライバル事務所よりも多く取り扱ってきました。さらに、米国で事業を行うヨーロッパ系および諸外国企業も代理しています。増田・舟井は、多種多様な業界でビジネスを行うクライアントにとって、何が最も重要であるかを常に認識しながらリーガル・サービスを提供しています。

増田・舟井のネットワーク

当事務所の弁護士とスタッフには、異文化体験を通じ、外国語を習得した者も少なくありません。そのような背景により、外国のクライアントとも円滑なコミュニケーションを図り、クライアントの懸念事項を的確に把握し、事業目的を達成できるように効果的な対策を講じることができます。当事務所は、Alliott Group Allianceのメンバーです。ミッドマーケットを対象とした専門的サービスの提供業者から構成された国際ネットワークのAlliott Group Allianceを通じて、国際ビジネスに従事するクライアントは、グローバルな解決策を求めることができます。Alliott Group Allianceには、北中南米・ヨーロッパ・中東・アフリカ・オーストラリア・アジア太平洋の諸国、全80カ国からのメンバーが参加しています。このようなグローバル・アライアンスによって、増田・舟井のクライアントには大きな利点がもたらされています。

基本理念

増田・舟井は、クライアントの皆様にご満足いただけるサービスを常に追求しています。弁護士を選ぶのはクライアントです。クライアントのリーガル体験を最優先し、その文化的感性や相違を背景とした多様性を理解し、尊重します。クライアントが望むサービスと必要な情報をより効果的に提供するために、弁護士とクライアントの協力関係を重視しています。増田・舟井は、時差をいとわず、クライアントのペースに合わせて業務を行います。クライアントのニーズを察知し、プロアクティブで密なコミュニケーションを目指します。クライアントごとにカスタマイズされた法的解決策を講じ、建設的かつ実践的アドバイスおよび卓越したサービスを提供できるように、常に尽力しています。

歴史

増田・舟井・アイファート&ミッチェル法律事務所は、当初、トーマス・増田と舟井勝を共同創業者として創立されました。トーマス・増田は1905年7月15日にワシントン州シアトルで生まれました。ワシントン大学で学士号およびJuris Doctor (J.D.)を取得し、1929年にワシントン州で弁護士活動を開始しました。同年10月に株式市場が暴落したのが引き金となり、米国経済は大恐慌に突入し、それを発端とした世界大恐慌は1930年代も継続しました。後に第二次世界戦や太平洋戦争も勃発しましたが、増田の法務との関わりはより深まってゆきました。

1941年12月7日、真珠湾を攻撃した日本軍によって、米国史上忘れがたい大惨事が引き起こされました。同日中に増田は逮捕され、その後起訴されました。増田が日本国総領事と懇意にしていたこと、増田は米国籍者であったにもかかわらず、非登録外国代理人として活動していたこと、日系企業の三菱商事を代理していたことなどが逮捕理由でした。トライアルを担当した検事は、増田がロー・スクールに通っていたときのクラスメートであり、増田の弁護に当たったのは、シアトル弁護士会の会長でした。最終的に、増田には無罪判決が言い渡されました。

1942年2月19日、フランクリン・ルーズベルト大統領は、行政命令第9066号を公布し、陸軍省に、西海岸に住む日系アメリカ人に強制立ち退きおよび指定地域における収容を命じる権限を与えました。米国籍者でも日本人の血を引く日系人は、一切の所有物を残したまま、手荷物の持参だけが許され、1週間ほどで家を出るように命じられました。増田も前述の無罪判決を受けた翌日に、移住センターへの移転を命じられました。

1942年3月18日、ルーズベルト大統領が行政命令第9102号に署名し、戦時転住局(War Relocation Authority)が開設され、当局に日系アメリカ人を抑留所や移住センターに抑留する権限が付与されました。当初、増田夫妻はシアトル・フェアグラウンドにある移転センターに送られましたが、その後、アリゾナ州のポストン収容所に移されました。戦時転住局は、同収容所で、増田を月給18ドルで弁護士として雇いました。

1944年に、増田は、収容者が移住センターから解放された後の移転先、すなわち再定住地を探すために編成されたタスクフォースの委員に選ばれました。収容者は、解放後もワシントン州、オレゴン州またはカリフォルニア州などの元の家に戻ることは許されませんでした。増田はシカゴ、ニューヨークおよびワシントンD.C.を再定住候補先として評価しました。米国国立公文書館の記録によると、当時米国政府が、生活を立て直すための経費として、解放された収容者に支給した金額はわずか600ドルでした。収容所から解放された日系アメリカ人は、再定住地で生計を立て直すために各自で仕事を見つけ、住居を確保し、必需品を購入する必要がありました。戦後の厳しい環境と反日感情が合い重なり、日系コミュニティーは、依然として困窮した生活を強いられました。

同年、増田夫妻は、ポストン移住センターからシカゴに移転し、新たなスタートを切りました。シカゴでは、Stuart Nudelman弁護士からダウンタウン(134 North LaSalle Street)のオフィス・スペースを譲り受けました。1952年、増田は、在シカゴ日本国総領事館に赴任したばかりの総領事に会いました。そして、総領事に、自分のオフィスに隣接するビスマルクーク・ホテル(Bismarck Hotel)にオフィスと住居を構えることを提案しました。間もなく増田と総領事の間には親密な協力関係が築き上げられ、日本企業が新たにシカゴ地域に進出するたびに、弁護士として増田を雇うようになりました。増田は、日本国総領事の住居としてエバンストンにある邸宅を購入し、その後、日本国領事館にその所有権を移譲しました。このような日系アメリカ人コミュニティーおよび日本国に対する増田の著しい貢献が日本政府によって認められ、後に「勲五等および勲四等瑞宝章」が贈られました。1960年代の初頭までには、増田は、シカゴの日本人コミュニティで広く知られると共に、敬われる存在となっていました。

増田は、日系新聞シカゴ新報社の取締役会長に任命されたこともあり、シカゴ東京銀行が設立された当初は、同行の取締役も務めました。1967年には、シカゴ日系評議会の会長に任命されたほか、シカゴ日本人共済会、シカゴ定住者会、シカゴ日本商工会議所、シカゴ日米協会、アップタウン・シカゴ委員会およびロバート・マコーミック・ボーイズ・アンド・ガールズ・クラブの理事も務めました。1981年には、シカゴ・シニア・シティズンの殿堂入りをしました。トーマス・増田は1986年4月7日に亡くなりました。

舟井勝は、1930年6月25日にハワイ州ハマクアで生まれました。両親は、1902年に新天地を求めて日本からハワイに移住しました。父はまずコーヒー栽培に着手し、後には、7人の子供らに支えられながら農業に従事しました。舟井は、高校時代は、生徒会活動に積極的に参加していました。大学時代は、陸軍予備役であったため、復員兵援護法(GI Bill)による恩恵を受けることができました。1952年にハワイ大学を卒業した後は、陸軍に入隊し軍事義務を果たしました。陸軍情報部に配属され、陸軍情報学校(フォートライリー・キャンパス)に送られました。軍事情報学校卒業後は、極東軍に配属され、中尉として最終軍歴を終えました。1957年にノースウェスタン大学ロー・スクールを卒業し、J.D.を取得しました。弁護士資格を取得した後は、保険会社に就職しました。

舟井は、単独で弁護士活動に従事していたこともありますが、1961年にトーマス・増田の法律事務所に加わりました。それ以来数多くの多国籍企業の顧問・弁護士として信頼されるようになりました。職業生涯において、日系アメリカ人コミュニティーを支援し続け、頻繁に無料奉仕を行ってきた舟井の貢献が日本政府によって認められ、2001年小泉内閣総理大臣から勲四等瑞宝章が贈られました。

ヘルムット・アイファートは、1929年11月4日にドイツ、ヘッセン州で生まれました。ノースウェスタン大学を卒業し、同ロー・スクールでJ.D.を取得しました。1958年、シカゴ・ダウンタウンのトーマス・増田のオフィスから4階下の13階にオフィスを構え、弁護士活動を始めました。1969年初め、増田は舟井にアソシエイトを採用するように頼みました。そこで舟井はノースウェスタン大学ロー・スクールのクラスメートであったアイファートを誘い、1969年3月には、アイファートが3人目の弁護士として加わりました。ヘルムット・アイファートは、がんによる長年の闘病生活の末、1995年に亡くなりました。

ジム・ミッチェルは、牧師の息子としてカンザス州エンポリアで生まれました。ノースウェスタン大学ロー・スクールを優秀な成績で卒業し、J.D.を取得しました。卒業後は、Schiff, Hardin & Waite法律事務所の訴訟部門で法務を始めました。その後1962年から1964年までは、米国司法省反トラスト局に勤務しました。1970年、ミッチェルは増田・舟井&アイファート法律事務所のメンバーとなりました。しかし、聖職者となることを志すようになり、同事務所に勤めながら、シカゴ大学で神学を学び始めました。そしてやがてミッチェル牧師が誕生しました。ミシガン州およびインディアナ州での布教活動に専念するために、1986年に事務所を退所しました。ジム・ミッチェルは、2018年12月28日に亡くなりました。

増田・舟井の4人の創立者たちが、それぞれ公共サービスの精神に基づき、すべてのクライアントに最高レベルのリーガル・サービスを提供するために尽力してきたように、その姿勢は現在でも変わることなく増田・舟井のカルチャーとして引き継がれています。

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